しまなみ海道で歴史を考える

しまなみ海道最大の景勝地、亀老山展望公園で瀬戸内海を見下ろしながら考えたのは、古代における瀬戸内覇権の重要性でした。

しまなみ海道の旅では初日に吉備路、翌日と翌々日はしまなみを回り、大山祇神社にお参りをしたのですが、これらの訪問地は、実は瀬戸内覇権という歴史の糸で繋がっています。

<古代、瀬戸内の覇権と吉備の国>

道路網が整備される前の古代日本において、瀬戸内海というのは最も重要な交通機関でした。道も禄に整備されていない時代の徒歩vs瀬戸内を走る舟。どちらが有利かは一目瞭然です。瀬戸内海の海運は古代におけるスーパーハイウェイ、そして国際ターミナルの役割を担っていました。古代の覇権争いの命運を握ったのは鉄器を始めとする渡来の技術ですが、瀬戸内は海外へと通じていたのです。

古代吉備が栄えた背景に、その瀬戸内の覇権があったことは容易に推察されます。その象徴の一つが、3,4世紀頃造られたといわれる造山古墳です(初日の最後に訪れた)。全長350メートルの前方後円墳は日本で4番目の大きさです。(他の大規模古墳と違って宮内庁管理ではないので、勝手に登れます。ただ、訪れたときは木の伐採中で、ぜんぜん古墳っぽい雰囲気はなかったですが・・・)

造山古墳の前方後円墳という形態は3世紀頃?の大和王権が発祥と考えられています。当時として日本最大の古墳を作り上げた古代吉備勢力は、大和王権にも深く関わっていた事が推察されます。

近年古代史は遺跡発掘などにより大きく塗り替えられつつあります。そのポイントの一つは、古代の日本各地の勢力の繋がり、ネットワークが明らかになったことだと思います。

例えば弥生時代の兄弟銅鐸、これは鋳型が同じ銅鐸の事ですが、島根県加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸と、奈良、和歌山、徳島、岡山で出土した銅鐸が兄弟銅鐸であることが判っています。

<四つの勢力の争いと協調=大和朝廷>
弥生時代末期から古墳時代にかけては、主に四つの勢力が覇権を競っていたと思われます。技術立国の出雲、文化的先進地の九州、瀬戸内の覇権を握る吉備、そして大和です。

農業発展における基本は開墾や水利ですが、これは鉄製農具によって可能になったと言えます。弥生時代、日本では製鉄技術が未発達で、大陸からの輸入に頼っていました。北九州、吉備、出雲が栄えたのは、大陸からの海路があり鉄器を大量に輸入出来たからでしょう。中国の史料には、当時倭人が鉄を求めて朝鮮半島に押し寄せていたという記述が残されているそうです。

大和に関しては他地域より少し出遅れますが、瀬戸内次いで出雲を経由して鉄器が入り、最初は山間地で細々と、次いで平坦地で大規模農業開発が進められ、次第に畿内は他地方を凌ぐ豊かな地となっていきます。

昭和の頃の歴史教育ではあまり語られていなかったと思いますが、日本国成立の鍵とも言える遺跡が、1971年から現在まで発掘の度に注目を集めている纏向遺跡(まきむくいせき:奈良県桜井市にある弥生〜古墳時代初期の巨大都市遺跡)です。纏向遺跡は北九州など四つの勢力で作られた遺物が出土しています。各勢力が協力して造った都であったのだろうというのが、最近の有力な説となっているようです。

つまり九州、出雲、吉備、畿内の有力な勢力の連合→祭政都市「纏向」建設(=邪馬台国?)→大和朝廷の成立という流れが想像できます。これは日本という国の成立そのものの話です。

非常重要で興味深い話です。連合体の形成は海外勢力との対抗という意味が一つにあるわけですが、しかしまあ弥生時代末期に国という概念があったかどうかは判りませんが・・・とはいえ例の「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおうのいん)」海外に対して自分の国を倭国と呼んでいた位ですから、ある程度はあったのでしょう・・・日本列島で国を形作ってまとまっていこうという流れが出来ていたというのは、非常に面白い事だと思います。

神話において、出雲→大和の国譲りの話が出てきたり、九州に降臨した神が大和に入ったりする話が出てきますが、これは四つの勢力が協力して大和朝廷を形作った事を示しているのかもしれません。

大和朝廷の成立以降、日本という国は歴史の転換点で常に「国の纏まり(まとまり)」を重視する方向に舵を切っています。あの、どう考えてもバラバラになりそうな江戸末期ですら、明治維新で一つにまとまるわけですから。対立する勢力との融合は日本の文化の特質とも言えるでしょう。

さて、当初、大和朝廷は四つの勢力の緩やかな連合体だったと思われますが、次第に大和が勢力を拡大していきます。

古代文化というと西日本中心のように思われますが、関東にも神代の創建(ということは恐らく3〜4世紀頃?)の鹿島神宮があり、その周囲で田園開発が行われた事が判っています。大和朝廷の農業開発が鹿島神宮付近にまで及んでいたのです。こういった東国の富を開発することで、大和朝廷の力はより拡大していったに違い在りません。伊勢の伊勢神宮、東海の熱田神宮(三種の神器の一つ草薙の剣が奉斎されている)など、大和朝廷系の重要な神社も、おそらく東方へ向かう開発の拠点だったのでしょう。

<ヤマトと吉備の力関係>

状況が変化したのは6世紀後半頃でしょう。大和朝廷が力を拡大し、吉備、出雲、九州を支配下においていきます。そして律令制つまり中央集権国家へと歩みはじめます。これが飛鳥時代へと繋がっていきます。

この様子が吉備の神社、そして桃太郎の昔話にあらわれています。

吉備津神社と吉備津彦神社の両方の祭神である吉備津彦は天皇家の古代神であり、大和朝廷から派遣された将軍であり、桃太郎の鬼退治のモデルです。つまり桃太郎の鬼退治とは、大和朝廷が、吉備の国の豪族=鬼を退治した話です。

そういった訳で、吉備津神社には吉備の地に大和系の神を配し、威光を示す意味があります。訪れてみると判りますが、吉備津神社にはいかにも大和的な空気が感じられます。

ところで吉備津彦神社とは?他の神社とは似ていない個性的な構成は、大和との違いを表しているように感じられます。一説によると、この神社には、どうやら討伐された鬼=吉備勢力?の祟りを封じる意味が込められているようです。

大和朝廷成立時の有力勢力であった出雲と吉備の両方に超大型神社が存在するというのは、同じ様な背景があったと言えなくもないかもしれません。

また、信州の例を引き合いに出しますと、諏訪大社は上社前宮(地元の古代神を祭る)と下社(出雲神を祭る)の二社四宮構成をとり、土着神と出雲の神、さらに大和神との融和政策が図られています。地元と外から来た神を二社構成で祭るという点で、ちょっと似てるかもしれません。

<中央集権国家の確立がこの時代の神社創建に見える?>
吉備国分寺も、大和朝廷が中央集権国家を確固たるものにする為に設立された施設です。 律令制の衰退に応じて、寺も一旦衰退してしまいましたが。 現在の備中国分寺も南北朝時代に廃寺となり、江戸時代に再建されたものです。 観光の一大名所ですが、あまり歴史的な雰囲気を纏っていないのは、このためかと。

さて、しまなみ海道一の観光名所となっている大山祇神社の創建は594年(推古2年)です。 祭神の大山積神は山と海を司る神と言われています。 大山祇神社が日本総鎮守と言われるほど重要視されたのは、 やはり瀬戸内覇権の要の一つだったからでしょう。

ちなみに、やはり瀬戸内に面した広島の厳島神社の創建は593年(推古元年)、 さらに吉備津神社の創建も、推古天皇の時代と言われています。大和朝廷が瀬戸内の覇権を確固たるものにするために、神社を創建していった様子がよく判ります。
<神話の歴史は、融和・融合の歴史>
但し、厳島神社自体は、おそらく古代から島(山)そのものが御神体でした。原始宗教、アニミズムですね。推古天皇の時代に、大和の神との融合が図られ、大和の神々が祭られるようになったのではないかと思います。

このように各地の出雲系や大和系の有力な神社は、文化と(文化と言っても稲作文化といった凄い意味での文化)の伝播、出雲や大和といった勢力の伸張を示しています。由緒ある神社というのは、日本の歴史を語る貴重な存在と言えるでしょう。

ところで、出雲大社は、意外なことに出雲勢力が造ったものではありません。出雲大社は大和朝廷が出雲の神を祭るために造った神社です。つまり大和朝廷が、出雲と融和するために造った神社です。

神様達の融和。異なった勢力間で融和を図る、昔からの日本人の知恵が生きています。

日本以外の国も、こういう知恵があったらなぁ・・・と思わざるを得ません。日本の場合、唯一神でなく多神教、自然=神、つまり、やおろずの神という寛容な宗教観、異なる物を積極的に取り込む文化が背景にあるわけですが。この、やおろずの神文化というのは日本の特質であり、誇っていいものだと思うのですよ。(明治期の廃仏毀釈〜国家神道というのは、歴史的には例外的な形)

・・・とまあ、こんな事を考えながら、大山祇神社にお参りし、海を眺めていました。

ちなみに、私は歴史に詳しくない、興味も普通程度しかない普通の人です。wikipeの記述や今まで読んだ歴史書等を参考に、想像を膨らませてみました。いろいろ変な点があると思いますが、ご容赦のほどを。いやまあ、こういった歴史視点を持って旅すると面白いでしょ!?みたいな。それが言いたかったのですよ。

ではでは、次の旅でお会いしましょう。