歴史の旅レポート

出雲・奈良、神話を巡る旅 PART1

〜出雲と奈良の神社・史跡を巡るドライブ〜

訪問日:2009年12月中旬〜  掲載日:2009年12月23日

プロローグ1 出雲の国譲り神話について

今回は出雲と大和で、神話と歴史を辿る旅をしてきました。

古事記や日本書紀で語られる日本神話上重要な位置を占める話として、国造りと国譲りの話があります。神話はあくまで神話であって、正しい事がかかれている訳ではありませんが、何らかの史実を反映して生まれた話だと考えられます。旅の前提として、まずはその二つの話を調べてみましたので、チョットだけ紹介してみたいと思います。

(真実が判らないことだけに、私の妄想が入ってますのでご了承ください。また凄まじく簡略化しているので、元々ご存知の方はスルーして頂いて、もっと知りたい方は本などで調べて頂きたいと思います。)青空文庫 古事記物語・鈴木三重吉(古事記の現代語訳)

---出雲 国造りの話---

高天が原で散々狼藉を働いたスサノオ。天照大御神は怒って天岩戸に隠れてしまいます。困った神々は天岩戸の外でお祭り騒ぎをしてみせることにしました。そして天照大御神が外の様子を伺おうとしたところを、力持ちの神様が引っ張り出したのです。・・・というお話は皆さんもよくご存知のことと思います。(*1)

スサノオのは罰として髪を抜かれ爪をはがされ、地上に追放されてしまいます。

出雲の地に降り立ったスサノオは、そこでヤマタノオロチを退治し、大蛇に食べられる予定だったクシナダ姫と結婚し、子孫を作り、日本初の和歌を詠み、大地に木を植え、日本を青木の国にしていきました。

スサノヲが最初に作った宮と言われる須我神社。日本最初の宮。かなり地味。

天上界で暴れ者だったスサノオの命は、地上に降りて人々を助ける英雄となっていったのです。(*2)

須佐之男命と奇稲田姫を祀る八重垣神社。
八岐の大蛇退治の時、裏の森に奇稲田姫を隠したという。縁結びの神様として有名

そして子孫である大国主命は国造りの神としてスサノオから地上の支配権を任され、田畑を開墾し、地上を豊かな国としていきました・・・(*3)

日本最古とも言われる奈良県桜井市の大神神社も大国主命を祀る。
拝殿は立派だが本殿はなく、御神体は三輪山という原始信仰的形態をとる。
大和朝廷初期から信仰されており、歴史上最も重要な神社の一つ。
国道169号沿いに高さ32mの大鳥居が建つ。無料の大駐車場あり。

---出雲 国譲りの話---

地上が豊かになったのを見た天照大神は、地上をも支配することにし、高天が原から使者を使わして大国主命に国譲りを迫ります。大国主命が国譲りの交換条件として出したのが、自分を壮大な社に祭ることでした。(それに応じて建立されたのが出雲大社です。)

大国主命を祀る出雲大社仮拝殿。本殿は平成20年から御修造中。遷宮祭は25年5月とのこと。

---天孫降臨と神武東征のお話---

地上の支配権を獲得した天照大神は地上を支配するため、孫のニニギを地上に遣わすことにしました。ニニギとその一行は九州は日向の高千穂に降りたちます。その子孫の神武天皇が東へ向かい、いろいろな苦難を乗り越えて熊野から上陸して大和に入り、天皇として国を統治することになったのです。

初代天皇である神武天皇の最初の宮(畝傍橿原宮)があったと伝えられる地に建てられた橿原神宮
明治23年創建の新しい神社だが、一時期国家神道の象徴的存在だったこともあり、規模は壮大。バックは畝傍山。
現在は神前結婚式に力を入れている模様。駐車場は有料。

これが国譲りから神武東征までの、超おおまかな話です。この話は出雲からヤマトへの権力の委譲を暗示しているように見受けられますが、1980年代中頃まで出雲に大きな国、権力が存在したと思われてはいませんでした。

〜補足〜

(*1)三世紀の卑弥呼の時代に日食が二年連続してあったのですが、そのこと反映していると言われてますね。

(*2)神話ではスサノオが森を作っていく神として描かれています。・・・森での狩猟生活を主とした縄文人の姿が投影されているといえるのかもしれません

(*3)スサノオの子(孫?)の大国主命は稲作を広めた神、つまり弥生文化の象徴と言える神だと思います。

出雲系の神様を祭った古社は日本各地に多くあります。例えば埼玉の氷川神社は須佐之男命、東京の大國魂神社は大国主命、諏訪大社は大国主命の息子のタケミカヅチです。

タケミカヅチに象徴される出雲族は諏訪地域に侵入して縄文系の地元豪族に打ち勝った後、地元の守屋氏と融和し、諏訪大社を基盤にして守屋氏などの地元豪族と共同統治を行っています。出雲の人々は稲作を日本各地に広めた弥生系技術者集団であったと言えるのではないかと思うわけです。

プロローグ2 古代出雲のクローズアップ

1984年から85年にかけて荒神谷遺跡から銅剣358本が発見されました。358本というのは、それまで日本全国各地で発見された総本数よりも多い驚異的な数で、考古学界に衝撃を与えるには十分なものでした。加茂岩倉遺跡からも多数の銅鐸が出土、全国各地の共通の鋳型で作られた兄弟銅鐸が見つかり、出雲と各地の間で盛んな交流があったことが分かってきました。

2000年には出雲大社から旧神殿の遺構が出土し、現在の4倍もの大きさがあったことが明らかになってきました。(現在の神殿ですら日本一大きいのですが)。古代出雲には他に類を見ない巨大な神殿があったと考えられています。

こうした相次ぐ遺構の発掘により、古代出雲が大和に匹敵する大きな勢力、神政国家であったことが明らかになってきたのです。

プロローグ3 纒向遺跡の発見・・・ヤマト王権の誕生の様子が明らかに

卑弥呼の墓と云われる箸墓古墳と奈良盆地をホケノ山古墳頂上から眺める。

1971年、それまで小規模な遺跡としか認識されていなかった巻向で、総延長200メートルに及ぶ運河状の遺構が発掘され話題となりました(運河は巻向小学校の校庭だった)。以降調査を重ねる度に様々な遺構が発掘され、 纒向が弥生時代の巨大な都市遺跡であることが判ってきました。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に展示してあったイラストと土器。
古代史が分り易く展示してあり、この博物館はとてもお薦め。無料駐車場あり。

纒向遺跡の特異な点は、発掘された土器青銅器が、出雲、吉備、北陸、東海、瀬戸、南関東、後期に は北九州と、全国各地から集まってきていることにあります。このことは、纒向が各地の豪族が結集して出来た連合国家の都市であることを示していると言われています。

桜井市埋蔵文化財センターに展示されている鉄器。
鉄により農業の生産性は飛躍的に高まる。古代の勢力争いは鉄の争奪戦だった。
桜井市埋蔵文化財センターは巻向遺跡発掘の中心的存在で大規模ではないが展示も充実し、お薦め。
場所は大神神社一の鳥居の前で、桜井市芝運動公園の一角にある。駐車場は運動公園にあり無料。

近年では纒向都市の成立をもってヤマト王権の始まりと捉える考え方が主流になってきているようです。ヤマト王権(ヤマト政権とも言う)は、大和朝廷の前身となる国家を表す言葉です。律令制以前をヤマト王権、以降を大和朝廷と呼ぶのが現在の主流のようです。

また年代が卑弥呼の時代と一致することから、近年ではこのヤマト王権こそが邪馬台国とみる意見が有力となってきています。

卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳。宮内庁管理なので面白みは少ない。R169沿いで国道を走っていると見える。

ヤマト王権こそ、日本という国家の最初の形と言っていいと思います。当初出雲や吉備、北陸、東海等の連合国家として成立したヤマト王権は、後期に九州の勢力を取り込み、政治制度を整え、大和朝廷へと発達していきます。

全長240mと巨大な崇神天皇陵。ヤマト王権の初代大王とも、神武天皇と同一人物とも言われる。

宮内庁管理の古墳は中には入れないので、実は訪れてもあまり面白くはない。

近くの天理市管理の黒塚古墳の方が、古墳に登れるし、隣接の博物館に発掘物が展示されていて面白い。
黒塚古墳の駐車場はR169沿いサークルKの裏手に無料の広いものがある

・・・・・

とまあ、こんな感じで日本という国家の形成過程が、近年では大分解明されてきているように思います。この部分というのは、日本人としてやっぱり知っておくべきではないか!と考えたのが、今回の旅のきっかけな訳ですよ。それに名所を訪ねるとき、色々な曰くとか、神話や歴史上の位置づけとかを知っていると、一層楽しめると思いますしね。

では神話と史実の接点を求めて、出雲の地に向かいましょう。

PART1に続く

HOME  

主な参考文献 

平凡社新書 一冊でつかむ天皇と古代信仰 武光誠 著 

ポプラ社 ヤマトは現人神の国だった 関裕二 著

JTBパブリッシング 古事記・日本書紀を歩く 林豊 著

各神社や博物館で頂いた資料、ウィキペディアなど

LONG TOURING CLUB 1999-2009 Copyright MORITA/LODGE MOTIVE All Rights Reserved.